モノを書くということ。
作者の一種の意思表示である。
書き手と書いた方が鮮明であろうか。
今回は勝手ながら、私が作者であるケースで話を進めさせていただく。
私は、あるテーマに沿った記事を書くことを、昔より得意としていた。
得意と言っても、それは作者自身のスキルに大きく左右されるため、私にとって得意なのであって、上手いや巧み的なニュアンスはまったく含まれていないことを、先に述べておく。
もちろん今まで、論文大会や、小論文等で賞など取ったことなどなく、誉れたことなど皆無である。
では、得意とは?と話はそこで停滞する。
この答えは私にも見えていない。
この段階では、テーマを持った話を活字にすることに抵抗を感じないと表現する。
いつかの新聞記事にこう書いてあった。
「中学、高校といった学生時代に、反省文を多く書かされた人は、文章表現に長けている」
この記事の真意は定かではない。
このことについては、これ以上言及しないでおこう。
さて、そろそろ本題に入りたい。
テーマ性を持った文章。
これまで、私も多く書いてきた。
このブログ内のみならず、至る所で。
その代表であり、最近の話と言えば、就職活動ではないだろうか。
各分野によって、その特性は多様ではあるが、必ず就職活動をする(した)人は通ってきた道であろう。
履歴書、エントリーシート、筆記試験。
個性も変哲もないテーマを与えられ、数ある縛りの中で、個性、私案を記事にしなくてはいけない。
ここまで私が作者であるケースの話は進んできた。
今回の私の答えは、「テーマを与えられた問題を記事にするのは、得意である。」となる。
つまり、今までの話を考慮に入れても、私にとって、あるテーマについて記事を書くことは苦痛ではない、ということである。
それは、私が捻くれていることが要因であると解釈している。
前述の通り、テーマに対して、個性、私案を生み出さなくてはいけない場合、そこには「発想」という返答が生まれてくる。
実際の私の体験(筆記試験)を例として、記述させていただく。
テーマは「バリアフリー」
バリアフリーについて言及を求められた場合、どのような私案を持っているだろうか?
私の答えは、「現在のバリアフリーは、バリアフリーではない」となる。
私がそこで書いた記事を全て書くのは止めておくが、概要だけ記述する。
「選択肢のない自由(フリー)を現在は、バリアフリーとして唱えており、一般にそれについての、障害(バリア)はないと考えられている。【選択肢のない】というのは、選べないという事であり、障害者シートといった拘束を指す。
障害者を押し込めるようなシートやブースなどが、果たして障害者からバリアを取り除いたと言えるのであろうか。いつまで経っても障害者の見ている景色は、一緒なのではないか。健全者の造った都合の良いルールに追いやられているだけではないだろうか。健全者の社会に対する負い目、世情がバリアであるような気がしてならない。
それを無くすことがフリーとなってはいないか。バリアフリーをハード面だけで捉える時代は、もう終わらなくてはいけない。心のバリアフリーでしか、障害者の見ている景色は見えない。」
簡単であるが、実際私の書いた記事の概要である。
少しでも参考になってくれたら嬉しい。
総括として述べたいのは、求められている記事とは「自信」ではないだろうか。
上記の私の記事にしろ言わば、駄文である。
自信ない記事は、伝わらない。
自分で言いたい事の分からないモノを他人に伝える方法を知っている人はいないだろう。
文字が人ほどに意思を伝える効果を持っているなら、それは只の文ではなくなる。
記事が自信を得て、自身になる。